大規模生命データからメカニズムを解読する

細胞内ではDNA、RNA、タンパク質、そして小分子化合物といった多種多様な分子が相互に作用し、巨大で精密なシステムを構築しています。ヒトをはじめとする多細胞生物では、これら細胞・組織・臓器のネットワークによって「恒常性(ホメオスタシス)」が維持されており、その均衡が崩れた状態こそが「疾患」の本態であると言えます。かつては個々の分子の機能解明が研究の主流でしたが、近年の技術革新により、ゲノム・トランスクリプトーム・プロテオーム・メタボロームといった網羅的かつ大規模なオミクスデータの取得が加速しています。

現在、深層学習をはじめとする人工知能(AI)技術の発展は、画像認識や自然言語生成のみならず、タンパク質の立体構造予測(AlphaFoldなど)に代表されるように、生命科学にも劇的な変化をもたらしています。しかし、一般的なAIはデータ間の統計的な相関を捉えることには長けていますが、その背後にある「生物学的なメカニズム」を必ずしも反映しているわけではありません。

私たちは、大規模データから生命システムの本質を理解するための「新しい数理的枠組み」を創出することを目指しています。AIの強力な記述力とシステム生物学の論理性を融合させ、汎用性の高い解析技術の開発を進めています。

研究プロジェクト(進行中の研究)

1. シングルセル代謝モデリング

細胞の生命活動において、代謝システムの維持は極めて重要な役割を担っています。本研究室では、シングルセル(1細胞)レベルの遺伝子発現量データから、細胞内の代謝フラックス(反応速度)を高精度に予測する独自の深層学習モデルの開発を進めています。

一般的なAIモデルとは異なり、私たちのモデルは物理化学的な法則や既知の生物学的な関係性をニューラルネットワークのアーキテクチャに直接組み込んでいる点が特徴です。これにより、従来は均一だと考えられていた細胞集団の中から、疾患に特異的な代謝状態を持つ個々の細胞を高い解像度で同定し、その特性を評価することが可能になります。

Reference:
Sakuma T, Ohno S, Shimizu H., Cell-type-resolved metabolic flux inference reveals stromal metabolic reprogramming across human cardiomyopathies. bioRxiv. 2026.04.19.719409. 2026. 
https://www.biorxiv.org/content/10.64898/2026.04.19.719409v1

2. メカニズムに基づくマルチオミクス統合解析

近年の計測技術の発展により、トランスクリプトームやプロテオームなど大規模なオミクスデータの取得が可能となりました。しかし、膨大な数の分子が変動する中で、生体システムにおいてどの分子制御が重要であるかを解釈することは依然として困難です。

私たちは、データ間の単なる統計的な相関関係を見出すだけでなく、微分方程式などの数理モデルを用いた「メカニズムに基づく理解」を目指しています。「分子Aが分子Bに作用する」という定性的な知見から一歩踏み込み、「分子Aが分子Bに対してX%作用する」といった定量的な解像度での解析を実現します。これまでに糖尿病モデルマウスにおいて生体反応ごとに異なる制御様式を見出しており、現在はがん細胞の代謝異常などにも応用を展開しています。

Reference:
Ito T, Ohno S, et al., MetDeeCINE: Deciphering metabolic regulation through deep learning and multi-omics. bioRxiv. 2025.03.24.645125. 2025. 
https://www.biorxiv.org/content/10.1101/2025.03.24.645125v1
Morita, K., et al., (2025). Structural robustness and temporal vulnerability of the starvation-responsive metabolic network in liver of healthy and obese mice. Science Signaling, 18, eads2547, pp.1-25. https://www.science.org/doi/10.1126/scisignal.ads2547
Uematsu, S., Ohno, S., et al., (2022). Multi-omics-based label-free metabolic flux inference reveals obesity-associated dysregulatory mechanisms in liver glucose metabolism. iScience, 25(2), 103787, pp.1-35.
https://www.sciencedirect.com/science/article/pii/S2589004222000578

3. 時空間的な病態システムの理解

疾患は、生体内の恒常性を維持するシステムの破綻として捉えることができます。当研究室では、糖尿病、心筋症、炎症性腸疾患、白血病、乳癌、パーキンソン病、認知症など、多岐にわたる疾患のデータ解析に取り組んでいます。

これらの疾患が進行する過程において、組織や細胞のネットワークが時間的および空間的にどのように変容し、破綻していくのかをシステム生物学のアプローチから解き明かします。病態の進行メカニズムを時空間的な解像度でシステムとして理解することで、新規治療標的の探索や効率的な創薬スクリーニングへの貢献を目指しています。

Reference:
Sakuma T, Ohno S, Shimizu H., Cell-type-resolved metabolic flux inference reveals stromal metabolic reprogramming across human cardiomyopathies. bioRxiv. 2026.04.19.719409. 2026. 
https://www.biorxiv.org/content/10.64898/2026.04.19.719409v1
Pan, Y., et al., (2024). Time and dose selective glucose metabolism for glucose homeostasis and energy conversion in the liver. NPJ Systems Biology and Applications., 10, 107, pp.1-22.
https://www.nature.com/articles/s41540-024-00437-2

4. 医療データを用いた診断・予測AIの開発

基礎的な生命科学の知見を臨床へと繋げるため、実際の医療データを用いたAIの開発にも取り組んでいます。

一例として、患者への身体的負担(侵襲性)が低い心電図のデータから、将来の糖尿病リスク(糖尿病予備軍)を予測するAIの開発を行いました。このような技術は、スマートウォッチなどのウェアラブルデバイスを用いた日常的な健康モニタリングや、在宅医療における非侵襲的な早期診断システムの構築に直結するものであり、実社会の医療課題解決に向けた社会実装を見据えています。

Reference:
Koga, D., et al., (2025). Artificial intelligence identifies individuals with prediabetes using single-lead electrocardiograms. Cardiovascular Diabetology, 24, 415, pp.1-13. https://link.springer.com/article/10.1186/s12933-025-02982-4


過去の研究プロジェクト

物質生産における有用微生物株の設計

産業上有用な物質を効率的に生産するため、微生物の代謝システムを論理的に設計する研究を行ってきました。対象物質の生産に最適化された代謝ネットワークを持つ微生物株を計算機上でデザインし、実験的な育種プロセスを大幅に効率化する技術基盤の開発に貢献しています。

Reference:
Ohno, S., Shimizu, H., & Furusawa, C. (2014). FastPros: Screening of reaction knockout strategies for metabolic engineering. Bioinformatics, 30(7), pp.981-987.
https://doi.org/10.1093/bioinformatics/btt672